「反面教師」
出典元、毛沢東の発案した言葉、及び立場。中国で生まれたものだったらしい。
知っている人は知っている事だが、「悪い見本」というやつである。人のやっているよろしくない行為を見て、自分はそうすまいと思わせる効果を出す。発案者の毛沢東は、敢えてそういう人物を組織に据えて他の人の意識改革に使った様だが、現代の日本社会においては人それぞれの心構えの問題だろう。知っていると知っていないとでは大違いである。
最強の部類に入る考え方とも言える。
つまり学校や職場、生活圏の中で、自分にとってとても嫌な行動を取る人がいた。そういう場合はもちろん「嫌だな」と思うのだが、別の見方をすれば「そういう行動をすれば嫌がる人はいるよな」であり、「じゃあ自分はしない様にしよう」となる。まず怒りで冷静な考えが出来ない事も多いが、怒りは時間と共に弱まる。ならば冷静になった時にこう考えられる様に、常に精神的補助システムとして、備えておくといい考え方である。自己修復機能でもある。
世の中には性善説も裸足で逃げ出す様なとんでもない人がいる。大人でも子どもでも、男性でも女性でもだ。特に大人はそれまで育って来た中で、誰にも注意されなかったのか、と驚く様な言動をする人がいるのである。当然、そんな人が立場の強い位置にいたりすると、組織なら人は逃げて行き、望まれる結果は生まれない。しかしそういう人ほど上に取り入る事は上手かったりするから始末に負えない。それが上手いからその位置にいるのだ。社内の下の者全員から嫌われているのに上からは評価を得ていて、そいつだけ評価されているなど、よく聞く話である。問題はその人の言動であって、下の者に冷たい、怒ってばかりいる、他人の成果を認めない、いるだけで空気を悪くする、など悪行の数々である。なかなかそれ全部を兼ね備えた酷い人もいないものだが、今挙げた中の一つや二つだけでもそこそこ嫌なものである。しかし頭に来るからと言って仕事は簡単に辞められないし、直接的な反抗には数倍の嫌がらせが返って来るだろう。世の中に悪い人は要るのである。
そもそも真っ向から戦ったとしても勝てるかどうか微妙だし、勝てない可能性の方が高い。そして揉め事は周りの空気を悪くするし、味方がたくさんいたとしても対立が激化するだけである。排除に動くにはかなり計画的に進めなければならない。実際排除が必要なレベルなら仕方がないが、自分も無傷では済まないだろう。なのでせめてもの精神的反抗として出来るのが、「その人を反面教師として自分はそういう事をしない」なのだろう。これが正しくなくてなにが正しいものか。上手く行けば、「あの人は酷いけどあなたはそういう事しないし良いね」と好かれる人になれるだろう。これがまだ上手く行くパターンではあるが、その経緯で目を付けられて悪い人から嫌がらせを受けるぐらいの事は想定出来るぐらい、悪い人の行動は始末に負えないしドロドロしているのである。
なかなか素直に解決するものでは無い。しかし毒しかない環境ならば、毒を吸って栄養にするぐらいの反抗は許されるし、持っていた方がいい心掛けだろう。世の中に悪い人は要るものである。