「ネコと和解せよ」
出典元、「聖書」のコリント第二5章20節より。I’m just kidding.
アメリカなどに比べて日本ではそこまで多くないが、それでもたまに教会の建物は見掛けるだろう。キリスト教徒は日本にはそこそこ多い。そしてそのキリスト教会的なところが街中に看板を立てて布教しているのが、この「ネコと和解せよ」である。そんな事していいのかと言われるとちゃんと許可を取って設置しているので、していい。宗教的な事に関しても日本には信教の自由があるので、問題はない。ただ、通りすがりの人にいきなり「ネコと和解せよ」と言われても……という問題はあるだろうが、見せつけては来るが強制的ではなく、見た人の受け取り方次第なので、ネコと和解するかしないかは本人の自由なのである。信教の自由もあるし。
しかし聖書にどれだけ素晴らしい事が書いてあったとしても、一節を切り取ってそれを見せて、理解せよとか感心しろとか言うのは無理があるのではないか。聖なる書は、細部の一節一節が聖なるオーラをまとっているとでも言うのだろうか。……言うのだろうなぁ。ただ、じゃあ小説が宣伝で、その物語の見応えのあるシーンの一節を切り取って看板にしたと考えるなら、それはそれでアリな宣伝方法に思えてしまう。じゃあ漫画なら、じゃあ映画なら、……なんだ、これはよくある手法なのか。じゃあ聖書が駄目なのかと言われると駄目ではないし、つまりそこから興味を持って聖書自体を手に取ってもらえるなら、それは正しい宣伝手段である。しかし問題はその文言である。
「ネコと和解せよ」と言われても、仲違いしていなければ和解もなにもない。そもそも飼っていなければ縁もない訳で、ネコに会う機会もないのである。かつての放し飼いも、近年都心部では特に敬遠されていて、飼いネコは外に出さない方が多い。そうなってくると飼っていない人にとって出会える機会は野良ネコぐらいしかないが、野生を生きている奴らは警戒心が強いので、なかなか簡単に触れる存在ではなかったりする。この10年間、一度もネコを触っていないという人は人口の過半数を超えるだろう。しかしつまり和解もなにも、ネコに縁がない人はこの話に縁がない。
ではネコを飼っている人はどうだろうか。飼っていれば大体の人は和解しているだろう。なにはなんとも、エサはあげているはずなのだから。ケンカした? 普段から懐いてない? 家族が世話してるから自分はほとんど関わらない? ああ、そういう人にしてみれば、ちょっとは考えさせられる説法かもしれない。たまにはちょっと遊んであげたり、いつもより多く構ってあげたり、おもちゃを買ってあげたり……。
……。
……。
と い う の は 冗 談 で。
ネタばらしをするとこれはキリスト教会の看板「神と和解せよ」の、「神」の文字が部分的に削れて「ネコ」になってしまい、変な意味になってしまったという話である。削れたのか、塗りつぶしたのかは不明だが。初出は定かでなく、偶然だったのかもしれない。少し削れて「神」の字が「ネコ」に見えてきた看板を見て、誰かが「これは……!」と思い、生み出してしまったのだろう。もちろんよそさまの看板にいたずらをするのは犯罪なので、やってはいけない。最初のものは偶然の産物だった可能性がかなり高いが……、しかしこういった「神」看板は各地に、色々なバリエーションを持って存在するのである。「ネコと和解せよ」の事を知っている人が、別の「神」看板を見て「おっ」と思ってしまったのだろう。だから犯罪なのでやってはいけないのだが、全国各地にこれのパロディ看板は実際に出現してしまっているのである。検索すると色々見付かる。
「ネコの裁きは突然にくる」
「ネコの国は近づいた」
「ネコは罪を罰する」
「地と人はネコのもの」
「私生活もネコは見ている」
「心からネコを信じなさい」
聖書の真面目なメッセージが、こんな簡単に面白おかしい話に変わってしまうのだから大したものである。これがまたネコである事に、このエピソードの面白さがあるだろう。「神」という超大上段からのメッセージが、「ネコ」になると言葉の意味が横滑りしてしまう。……が、ネコを飼う事を”宗教”と要約される事もあるように、ネコもまた対人間にはそこそこ上から目線の動物なのである。横滑りした先にネコの習性とピッタリの意味が当てはまってしまったのが、このお馬鹿エピソードの面白さの肝かもしれない。
「ネコを恐れ敬え」
「ネコへの態度を悔い改めよ」