「お前が寝る前にベッドで無駄にスマホを見て過ごした十分は 明朝お前が死ぬほど寝たかった十分」
出典元、どこかに貼ってあった壁紙より。「十分」は「じゅうぶん」ではなく、「10分」の方。
これは、以下の格言……的なものの、改変と思われる。
「今日あなたが無駄に過ごした一日は、昨日死んだ人がどうしても生きたかった一日である」
ふむ。こちらはなんというか、なるほどそういう考え方もあるんだね、そういう考え方をする人もいるんだね、という気持ちになる格言である。つまり「しゃらくせえ!」。こういう考え方をすれば毎日も大切に生きられるでしょう、と上手い事言ったつもりなのだろうが、刺さる人には刺さるが刺さらない人には刺し返されるタイプの理屈で、大きなお世話だと感じる人は多いだろう。反論はしにくいけど人をうんざりさせるタイプの物言いというか、それを聞いた人の性格によっては、毒にも薬にもならず反感しか産まない。まあ、イラッとするやつ。
しかし改変後のスマホの話になると、途端に生活に根付いたものになり、共感度が高くなる。確かに寝る前にスマホをいじる人は多く、そして朝起きた時に「もうちょっとだけ寝かせて……」と思う人は多いからである。そもそも朝は誰だってもっと寝ていたいだろう。「やった、朝になった!」と飛び起きるのは遠足の日の小学生だけである。そしてその寝る前にスマホをいじっていた時間が10分で、二度寝したい時間が10分だったのなら、それは確かに無駄だったと言えるかもしれない……。しれない? 異議あり!
あるよ、異議。そもそも「無駄にスマホを見て過ごした」というのが暴論である。横から見れば遊んでるんだかSNSを見てるんだか分からないその行為も、自分のためになったり人のためになったりする行為かもしれないのだから。さらに、敢えて、言えば、遊んでいても無駄ではない。それはストレス解消になっているかもしれないし、恋人との愛情を育む大切な連絡かもしれない。暇潰しでネットサーフィンしているだけだったとしても、その情報が自分の糧になるかもしれないし、その芸能ニュースが明日友達と盛り上がれる話題になるかもしれないのである。無駄と言うならどういったものが無駄なのかハッキリさせるべき。
そしてもう一つ、夜寝る前の10分と朝の10分とでは、価値が違うのである。これは説得力のある感情論として言わせていただくと、気持ち良さが違うのだから価値も違う。あれだけ気持ちいいのだから、朝の時間は夜の時間の数倍の価値があるはずである。夜10分早く寝る事によって朝10分寝ていられるなら、とっくに誰でもしているはずである。時間は平等に流れるかもしれないが、体感はその比率を狂わせる。
しょせん、改変で作ったフレーズが名言になれるはずもなく、理屈はこねられていても心には響かない。改変前のものまでうさん臭かったのなら、なおさらである。