「実際に七月六日だったわけでも、サラダだったわけでもない。」
1 おととい名桜大学の学生さんに話をする機会があって、そのおり「なぜサラダ記念日は七月六日なんですか?」という質問が出た。実際に七月六日だったわけでも、サラダだったわけでもない。
— 俵万智 (@tawara_machi) 2014年7月6日
出典元、歌人である俵万智(@tawara_machi)氏のつぶやきより。連続ツイートだが肝はここである。
受け取り側の考え方次第だが、作家による創作秘話のネタばらしというのは一長一短なのではないか。それを聞いて「へぇー、そうだったんだ」と思う事もありつつも、「え……、そんな事だったの?」と思う事もある。よくある。分かりやすいところでは小説を読んだら後書きで作者がその作品についてつらつらと語っている。この登場人物の性格や設定は何々をモチーフにしてこういう風にして生まれた、最後はハッピーエンドにするか迷ったが結局あやふやなままにして読者の想像に任せる事にした、などなど。もちろん知れて嬉しい情報もあるし、作品自体を作者が語ってくれる事自体がレアなので終わってしまった作品の追加情報として最高のおまけとも言える。
しかしそれで冷める場合もあるのである。
多々、ある。どこどこの作品の誰々という登場人物と、どこどこの作品の誰々という登場人物を混ぜた様な造形、と言われても分からない場合が多いし、その作品のその登場人物を好きになった人にとって、作者から正式にそういう事を言われてしまうと、「ああ、どっかのキャラの真似なのか……」という残念感が発生する。ハッピーエンドにするかバッドエンドにするか迷ったなんて話は聞きたくない。単巻の小説はそれ一つで完結した作品である。「小説内の事が全てで、受け取り方は読者次第」と突き放す作家が多いが、そちらの方が筋が通っているのではないか。ファンサービスという考え方はひとまず置いといて、である。ま、これが漫画となると少々違ってくるが……、しかしひっくり返し過ぎたり「実はこういう事だったんですよ」と実情を語ったりして”やっちゃう”作家というものもそれなりに多い。後書きだけでなく雑誌インタビューなどでも多いパターンだろう。
「この味がいいね」と君が言ったから 七月六日はサラダ記念日
俵万智(たわら まち)の、日本文学史に残る名短歌であるが、2014年のツイートで、この流れなので言わせてもらうが、”ケチが付いた”。
実際に七月六日だったわけでも、サラダだったわけでもない。
ええぇ……。実際は唐揚げをカレー味にして褒められたエピソードから作ったらしく、日付も時期や読みやすさ、ほかの記念日と被らない様に調整したらしい。言っている意味は分かるし、それこそが創作活動とも言える。
しかしそれで冷める場合もあるのである。
言わなきゃいいのに! これまで数十年、全国何百万人の人が「今日はサラダ記念日なんだよ」と語っていた根底が覆る。宇宙の法則が乱れる。やはりこればかりは、「作品はそれが全てで、あとから作者があれこれ言うものではない」ものだったのではないか。どれくらい共感が得られるか分からないが、酷い残念感である。
しかし大ブームを起こした当時、俵万智は引っ張りだこになり、雑誌にもテレビにも出ていた訳で、このツイートにも「唐揚げだったって聞いた事ある」という反応もある。既知の情報だった様である。しかしだからといってそれこそ俵万智を戦前の文豪みたいに思っている人も多い中、わざわざ新たに言わなくてもいいのに、と思うものである。世の中の全ての人が世の中の全ての情報を知っている訳ではないのである。
ま、七月六日という一年に一度の記念日に、作った本人がそのネタを語りたくなる気持ちは分かるけどさっ。
本ページの情報は2023年3月時点のものです。最新の配信状況はU-NEXTサイトにてご確認ください。