「しかし存在しない肉体は滅びないし、交わされていない約束が破られることもない。」
出典元、村上春樹の小説「1Q84」BOOK2(2巻)より。女主人公、青豆のモノローグ。
「1Q84」は村上春樹の小説である。「いちきゅうはちよん」と読む。1984年の日本を舞台に、現実世界の話……として始まるのだが、途中から世界が”ズレ”始め、少しだけ現実世界と異なるパラレルワールドに突入する。しかしそれを認識している人はほとんどおらず、主人公たちは誰に相談する事も出来ない中、悪戦苦闘するのである。「9」を「Q」にして世界の理(ことわり)から飛び出してしまったさまを現すのは非常に上手いが、ちょっと「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q」っぽくもある。
ダブル主人公ものであり、男主人公川奈天吾(かわな てんご)と、女主人公青豆雅美(あおまめ まさみ)が章を交互に語り部を担当して別々のストーリーが進む。それが次第に関連し始め、二人の運命はリンクしていく……とストーリー概略っぽく言ってみる。「青豆」という珍しい名前が気になるが、大きな意味はない。また、青豆の下の名前が判明するのもずっと後になってからだが、それにも特に意味はない。なんやねん。
村上春樹の新作長編という事で、「1Q84」は2009年の発売当時非常に話題になった。ああ、人は話題になればこ ん な に も 新 書 本 を 買 う の か 高 い の に、と思った本読みも多数いた事だろう。あっという間にベストセラーになったし、実際に非常に面白い小説なのだが、なかなかにぶっ飛んだ作品であるとも言える。現実世界ものと思っていたらファンタジー要素がにじみ混んできて混乱する、を主人公たちも味わうし読者も味わう。たぶん前情報なしで読んだ方がいいタイプの小説の一つだろう。すいませんでした。いつの間にか空に月が二つ浮かんでいるのに気付いた主人公が、そこにいる友達に聞くか「うーん……困った事になったぞ、どうしたものか」と悩むところは、シュールギャグとして狙って作っていたのなら非常に面白い。
設定自体も多少、イカれていたりしない事もない。実は主人公たち二人は小学校の同級生で、天吾が青豆を助けた事があり青豆は天吾に惹かれていた。しかしそれは心の底での話であり、小学校以降縁が切れたあと二人はお互いに会おうとも思わなかったし探そうともしなかった。単にずっと、思い出として青豆は10歳の天吾を愛していたのである。……ん?
「しかし存在しない肉体は滅びないし、交わされていない約束が破られることもない。」
一人称ものなので、これは青豆の心の声、モノローグである。自分の心の中心にある愛は本物だ、と青豆は思う。ただし対象は10才の天吾でありその肉体は存在しないし、将来の約束をした訳でもないからその約束が破られることもない。……んんん? どこからつっこんだらいいのか……。ないのだから滅びない、交わしていないのだから破られない……? そりゃそうだけど、なんちゅう屁理屈だ。
たまにある、ルールの中での頭脳戦での裏のかき方に「前提条件が異なる」というものがある。「そもそも俺は参加者じゃないのさ」とか「元から別の場所にいたのさ」みたいな、最後の最後でひっくり返すやつである。それの一種がこれだろうか。「交わされていないから破られないのさ」って。いや、これは理屈で考えちゃいけないやつか。説得力の弱い真実の愛というのもまた珍しいが、読めばそれが真に迫ったものだという納得力はある。納得力という言葉があるかは知らないが……。これがどうにも力ずくで納得させられてしまうのは恐らく、村上春樹の文章力、および、一人称小説の心理描写の力なのだろう。