「今はもうない」
出典元、森博嗣の小説「今はもうない」より。タイトル。
森博嗣の初期のシリーズ、いわゆる「S&Mシリーズ」の一冊である。ジャンルはミステリィ。シリーズ10冊はどれも凝った名前が付けられているが、この「今はもうない」もまた、奥の深い名前である。短いフレーズながらも非常に哲学的な印象を受ける。
人が「今」と認識した時、それは本当に「今」なのだろうか。「今」、物を掴んだ場合、脳に信号が届くまでに0.1秒なりとも時間が掛かっている。それを「今」と言っていいのだろうか。「今」と認識した時には、その「今」は既に過ぎ去っている訳で、厳密には過去である。遠い過去や遠い未来を思案すればそれは確実にあると言えるが、「今」だけは遠い今も近い今もない。では常に動いているのかと考えるとそれも人間基準、個人基準になってしまうのでおかしな話だ。「今」というものは少なくとも未来ではないが、もしかしたら過去の一部なのかもしれない。つまり「今」とは、人間が知覚出来ると思っているだけであって、時には本来、過去と未来しかないのかもしれない……。
……が。
しかし違うのである。そういう哲学的な意味を持つタイトルではないのである。そんな浅い意味ではないのではなく、そんなに深い意味はないのである。作中、ある建物について二人の登場人物の会話がある。「こうこうこういう建物で……」「へぇ~、見てみたいな」「今はもうないんですよ」といったやりとりである。その……、「今はもうないんですよ」、の意味しかない!!
なので過去だの未来だのの話は当然作中で語られる事もなく、この作品を読んでもその答えは出ない。しかし、……これがまたいい味を出しているのである。つまりどういう事かと言うと、いわゆる「タイトル回収」、タイトルの意味が最初分からず、最後のクライマックスなどで「ああ!」と意味が判明するアレの、まさかの逆パターンである。いや、逆というか、そのまんまか。深い意味があると思っていたらそのまんまの意味しかなかった、という。裏をかかない裏のかき方、と言えばいいか。読者としては、あれ、ここでタイトルのセリフがしれっと出たけど、なんか他にも意味があって関連付けるのかな? と思わされたのに最後まで関連付けない、予想の裏切られ方。しかしこの作品は小説自体の内容がかなり驚きの展開なので、読み終わった読者がそれに気付くのはワンテンポ遅れるだろう。そして気付く。このちょっと哲学的に聞こえるけどよく考えると普通のフレーズ、がタイトルに使われている事のセンスの凄さに。強いて言うなら「味がある」の最上級。
ちなみにこの作品、シリーズで一番好き、と言う人も多い素晴らしい作品なのだが、たまにある「シリーズ通して読まないと面白さ80%OFF!」というタイプの作品でもあるので、読む際はシリーズの初めから読んだ方が後悔が少ないだろう。とりあえず一回読んだあとに記憶を消して、一巻から改めて読み直すというのは、人間には難しい。
本ページの情報は2023年3月時点のものです。最新の配信状況はU-NEXTサイトにてご確認ください。