「三国志演義」
出典元、羅貫中の作と言われる、中国の三国時代を書いた小説の名前。小 説 の 名 前。
歴史とは恐ろしいもので、「昔だなぁ」と「大昔だなぁ」の間にも、想像出来ないほど大きな時間の狭間があったりするのである。日本で言えば今年で戦後75年だが、日露戦争からは115年だし、大政奉還からでも152年しか経っていない。それ以前は江戸時代である。よく、「本能寺の変」は実はこんなだったらしい、「長篠の戦い」には鉄砲の三段撃ちは使われなかったらしい、などという話が出て来るが、それもそのはず、それら有名な歴史上の出来事は、「大昔」と「昔」の間に既に伝説と化し、創作の割って入る期間がいくらでもあったからである。つまり「昔からそう言われてるじゃないか!」と言われても、幕末の人が信じていた「長篠の戦い」の鉄砲三段撃ちは、幕末計算でも293年前の出来事である。絵も残ってるじゃないか、と言われるがあの屏風絵も合戦から100年以上あとになってから描かれたものだと言われている。つまりそれも伝説化のあとのものである。昔から皆が信じているからといって、教科書に載っているからといって、真実とは限らないのである。一筋縄では行かない。
そして「三国志演義」である。これはそれこそ日本では卑弥呼の時代である。卑弥呼の邪馬台国と交流があったと記録される魏志倭人伝の「魏」が、三国志の国の一つである事からも、古さは分かる。西暦で言うと200年代の話である。さらに舞台が中国なので、遙かなる時代を超えたあとに、又聞きの又聞きが発生している。どういう事かと言うと、三国志の時代の終わったあとに陳寿の書いた「三国志」、いわゆる「三国志正史」があり、「三国志演義」が書かれたのは羅貫中のいた時代を考えると1300年代である。1000年は飛んでいる。しかもその「三国志演義」自体、本当に羅貫中の作なのか、それまでいろいろな人が書き残したものを羅貫中がまとめただけなのか、定かでは無いという。その上で「三国志演義」は「三国志正史」から大幅な脚色が加えられており、この時点で作為的に娯楽小説化している。いわゆる有名な、劉備が正義で曹操が悪役、の造りになっている。しかし戦いや勢力図の大まかな流れは踏襲しているので、全てが創作という訳ではなく、言ってしまえばそこが始末の悪いところである。
そんな「三国志演義」を参考に「三国志」は日本に入って来てしまった。日本人は三国志が好きだ、とよく言われるが、定番の流れは吉川英治の小説「三国志」だろう。この時点でまたさらに吉川英治による脚色がされている。そしてそれを元にした漫画、有名な横山光輝「三国志」、これもまた吉川英治のものから漫画風に脚色して、まあ日本人が一番馴染みのある三国志といえばこれだろう。そうなって来るとゲームなどもそちらに準拠せざるを得ない。この分野のゲームのパイオニア、光栄のゲーム「三國志」は完全にこの「三国志演義」方面に乗っかった話の流れ、登場人物のパラメータ設定を採用している。さもありなん。そうしないと苦情が来るからである。張飛益徳(ちょうひ えきとく)、武将同士の一騎討ちなどほとんどなかった、諸葛亮孔明(しょかつりょう こうめい)は内政の人で軍事には明るくなかった、など、まあ苦情は来ますわな。
取り上げたものとしては少し壮大すぎる「三国志演義」だが、つまりそういう事である。昔の話など、なにが本当でなにが創作か分かったものでは無い。そして嘘でも、定着してしまえばそれが真実となり、皆に信じられ続ける。困った話であるが、1000年単位なら諦めも付く話も、100年単位で平気で行われている。真実を書く書籍はいくらでも発行されているのに、テレビでドーンと広まってしまえばあっという間に勝負は付いてしまう。出来る事と言えば、そういう広まり方があると知っておく事と、物事を鵜呑みにし過ぎない事だろうか。声の大きさが正しさに比例する訳では無いのである。