「謝ったなら許す事にしている」
出典元、不詳。どこかの誰かのセリフ。粋なのかどうかは、分からない。
謝るべきなのに謝らない人が多いという話である。ぶつかったとか、ミスをしたとか、注文を間違えたとか、なんでもいいが、一方的に悪い事をする人もいるし、悪意は無いがやってしまったという事もある。そこでまあ、やられた側はプンスカする訳だが、「謝られてもしょうがない」場合というものはある。が、それとは別に、「謝られて許さなくてもしょうがない」場合もあるのである。それに対する考え方の一つとも言える。
「謝ったなら許す事にしている」
そこで謝って来た相手になにか言うのは、それほど重要では無い。そうでは無く、自分の中で、このわだかまりを自分ルールで”謝って来たのだから許そう”と決めている事が重要なのだと、思う。何度も同じ事をやられたらそれはまた違うが、一回だけやらかされたものを、その一回について謝って来た人に対して、自分の不利に働いたからと言っていつまでも怒っていたのでは気持ちが前に進まない。変な言い方をするなら、「因果が巡らない」。そのわだかまりは構造上、解決しているはずだからである。
これは自分の心の中に、ルールとして持っていた方がいい考え方なのかもしれない。ルールには遵守する。当然怒りが爆発するレベルの不快を受ける事もあるだろう。しかしルールとして、”謝って来たなら許す”と決めていると、許せるのである。頭には来ているがそういうルールがあるのだから仕方ない。あなたには怒っているが謝ったからにはこの一回は許す。それで、いいと思う。まず自分の心の平穏は保たれる。ここまではまともな話。
さて、「因果が巡らない」と変な言い方をしたが、これも根拠のない話である。が、過去を振り返ってみて思い当たる人もいるかもしれない。嫌な事をされた、謝られた、許さなかった。……もう一度謝られた、許さなかった。わだかまりが残った。そういう状況はあるだろう。ここで、嫌な事をされた、謝られた、許した。だとしたら、この場合、もう一度謝られる事は無いだろう。話は終わったのだから。そして、「因果は巡る」。全く同じ人とはならないだろうが、今度は自分が、人に嫌な事をしてしまった。謝る。因果が巡っていれば、許してもらえる。因果が巡っていなければ、許してもらえない。……やはりまともな話では無いが、
つまり、別の言い方をすれば「見ている人は見ている」のである。
あの人はこんなつまらない事でも許してくれなかった、ずっと怒ってた。その逆、あの人はあの時かなり怒ってたけど、ちゃんと謝った人をちゃんと許してた。あ、このミスした人、その時の人なんだ、謝って来た。じゃあ、許してあげようかしら……。
粋なのかどうかは分からないが、自分に役に立つ考え方として、持っていた方がいい自分ルールと言えるかもしれない。自分は許して、自分の時は許されなかったとしても、意外と心の芯は揺らがないものである。