「嫌いな人も一度、食べてみてほしい」
出典元、不詳。たまに聞く事がある独自の見解。
食べ物の好き嫌いの話である。好き嫌いは無い方が当然いいのだが、あったとしたらあったとしたで仕方のない部分でもある。10個も20個もあったり、野菜全般がダメだとかはどうかした方がいいと思うが、例えばキャビアが苦手と言われたら「そうですか」としか言い様がないし、酒盗(しゅとう)が苦手と言われたら「珍味だしね」と納得せざるを得ない。嫌いな物がない、という人だとしても、ゲテモノ料理まで全部食べられる訳ではないだろう。そしてそのゲテモノか一般料理かの線引きが難しい料理も存在する。ま、常識の範囲で、多少はね。と言ったところか。
つまり好き嫌いを全否定するものではない、という話である。が、それを柔らかく否定してくる逸話が今回のセリフという事になる。
「嫌いな人も一度、食べてみてほしい」
これはつまりどういう事かと言うと、料理店などが自信を持って、うちの自慢の調理方法で作った料理だから、普段これが嫌いな人も食べてみて、と言って来る場合である。例えばピーマンが嫌いな人にピーマンをメインとしたこだわりの料理を勧めて来る。これについて、結果はそれほど重要視しない。たとえその料理がピーマン嫌いすら唸らせる美味しい物だったとしても、勧めたという行為自体の思考、姿勢を問題視する。
理屈ではない場合もあるのである。
「ピーマンが嫌いなんだ。味? 匂い? 食感?」、それぐらいまでが予想の範囲だろう。しかし世のピーマン嫌いの中には、味がどうとか匂いがどうとか食感がどうとかではなく、とにかくピーマンが嫌いだという人も存在する。どういう事かと言うと、”自分はピーマンが嫌いな人間”と自分の中で確定されている。自我を持って以来、自分という人間の設定でそう決まっている、という考え方である。実際には初めて食べた時に不味いと思ったのが尾を引いているパターンがほとんどで、設定などは理屈としておかしいが、理屈ではない場合もあるのである。いわゆる「嫌いな物は嫌い」。
つまりそういう人に向けて、味を工夫してみたり、匂いを工夫してみたり、食感を工夫してみたりしたピーマン料理はなんの価値ももたらさない。舌が味を受け付けても、脳が拒否して嘔吐してしまう可能性すらある。こうなるとただの嫌がらせである。むしろピーマンが入っている事を隠し、騙して食べさせる方がマシなぐらいだ。料理店などが自信を持ち過ぎるとこういう変な方向に押し付けがましくなる事があるので困ったものである。もちろんそんな事をしないところがほとんどだが、いい評価を受け続けてとんでもなく高い位置に行ってしまうと、こういう考えを持ってしまう事もあるのである。このセリフに似たセリフを言ってしまった事のある人は、それがどれだけの人に共感してもらえるのかを考えた方がいい。
理屈ではない場合も、あるのだから。