「お腹に入ってしまえばみんな同じだ」
出典元、特定のものはなし。日常会話においてたまに使われてしまう言葉。
世界三大暴論の一つ。
「お腹に入ってしまえばみんな同じだ」。……同じな訳がない。それは料理というものを根本から否定してしまう言葉である。白いご飯をそのままで皿一杯食べてから、カレールーを流し込んだらそれは同じなのか。カルピスの原液をそのままでゴキュッと飲んでから、その5倍の量の水をゴクゴク飲んだらそれは同じなのか。味わいもなにもない。
しかしこれは……なにかをフォローする時に使われがちなフレーズなのである。例えば寿司を食べる時にシャリが崩れてバラバラになってしまった。バラバラになったそれらを別々に口に運ぶ時に、「お腹に入ってしまえばみんな同じだ」から、大丈夫大丈夫、というフォローがされてしまうかもしれない。あとは料理をしていて盛り付けの順番を間違ってしまった時に、「いいの、お腹に入ってしまえばみんな同じだからw」といった風に使われがちである。これらはフォローなので、料理を侮辱しているとかそういうのではない。フレーズとして聞くとおかしいのに、実際に聞くシーンにおいてはまともに聞こえてしまうという珍しいタイプの言葉である。
問題は、美味しい物を食べるという行為を、本気で軽視している人の存在である。世の中には「お腹が膨れればなんでもいい」というマシーンみたいな人がいる。いてしまう。本人にこだわりがないまでは勝手にすればいいのだが、恋人や家族がいた場合にその人の影響力が大きいと、周りもそれに巻き込まれてしまうのである。食べる物はいついかなる時であっても「なんでもいい」、どんなに特別な日であっても「いつものところでいい」といったマシーンっぷりである。
これはつまり「たまにはいつもより美味しい物が食べたいね!」に共感してくれないという事であり、きつい人には本当にきつい。これにケチ要素が加わった日には、質素とか倹約とかの弁明の余地もなく、人として非常にメンドクセー存在になってしまう。育ってきた環境が違うから好き嫌いはイナメナイが、食べる物の選び方については相手に合わせる度量、もしくは妥協も時には必要なのである。せっかくこんな、食べ物の美味しい国に住んでいるというのにね。
ただ、どうしてそういう人がいるのかについての推察は可能で、日本は「安い食べ物のレベルが高い」という要素が比較的強く影響しているかもしれない。”外食はご馳走”のイメージがあるので、どんなに安い物でも外で食べる料理は一定以上の美味しさを保っている。そして値段を5倍にしても美味しさは5倍にまでならない。そういった部分が影響して、「いつものとこでいいよ、安くてお腹一杯食べられるし」という嗜好を生んでしまうのだろう。
……なお、一部からの反論意見、「うるさいぐらいの食通よりはマシ」、そして「食事にうるさくない旦那は楽」という意見もあり、その部分については悲喜こもごもである。