「信頼できない語り手」
出典元、ウィキペディアのページより。ページタイトル及び、その内容。
「信頼できない語り手」、これは小説用語である。小説は主に一人称小説と三人称小説に分けられるが、どちらにしても”地の文”と呼ばれる語り手の存在がある。一人称小説であれば主人公本人で、三人称小説だと人の場合もあるが神の目線である事が多い。しかし「信頼できない語り手」ではその地の文が信頼できないため、あらゆる事柄に信用を置けない状態でストーリーが進む事になる。なんじゃそりゃ。そもそも語り手が信頼できないという時点で既に面白い。
「信頼できない語り手」がどういった時に使われるかと言うと、まず第一には叙述トリックがある。叙述トリックとは小説でしか使えない手法で、主にミステリー小説で使われる。”嘘は吐いていないが真実の全てを語ってもいない書き方”とでも言おうか。つまり読者を騙すために使われる。「実は語り手が犯人でした」という場合は、語り手にとって不利な情報を伏せたり、重要な点をわざと語らなかったりなどのやり方がある。あるいは「激しい雨音がする」とは語るが録音の音声だったり、「5人の男女」と語るが一人は赤ん坊だったり、とかである。真実を明かした時にいかに読者に「やられたっ」と思わせるか、それを目標とした書き方で、真実を明かした時にいかに読者に「なんだよそれひでえごまかしだな!」と思わせないかのテクニックが要る書き方でもある。
格好付けた言い方をすれば「ミスリードを誘う」という手法なのだが、本当にちゃんとうまく使わないと読者からの反感ばかりを買う功罪あるやり方でもある。しかしミステリー小説界隈は読者側も煮詰まってきていて、いかに読者を騙すかに心血を注いでいる作者と、いかに作者に騙されないかに心血を注いでいる読者ばかりなので、勝手にやってれば、と思わないこともない。素人のお呼びでないハイレベルな騙し合い、探り合いは、それはそれで楽しい。
騙す部分は共通するものの、ほかで「信頼できない語り手」が登場するのは、一人称小説で目線が小さな子どもの時などがある。その場合、おそらく作者も子どもで……、じゃなくて大人が子ども目線を意識した文章を書いているだろう。漢字を少なくしたり、考え方が子どもらしく幼稚だったりと、意外とこれを本格的に書こうとすると技術が必要になる。5歳児の一人称を書こうとしても、ひらがなで書けばそだれけで幼稚さや天真爛漫さが出せる訳ではないのだから。もう一つ、語り手が精神に異常を持っていたりあまりにも常識外れの人格だったりする場合もある。……が、この場合はパターンが多岐にわたる事と、少し”作者のさじ加減でどうにでもなる感”が強いので、あまりこういうものだと言いにくい。いや、型にはめて語れないと言うか……。まあ「ドグラ・マグラ」みたいな作品である。
あともう一つ、ここで言う「信頼できない語り手」とは少し違うのだが、「トンデモ本」という本のカテゴリーがある。小説ですらないのだが、”間違った事を書いてある本”というやつで、著者は大真面目に書いているのだが内容は間違っているというか嘘なので、読むだけ損である。なんだろうな、「神々の指紋」とか、「ゲーム脳の恐怖」みたいなやつ。ちゃんとした出版社から出ている綺麗に完成された本なのに読むと馬鹿になるという画期的なジャンルである。それらの本は「信頼できない語り手」という手法を使った小説ではないが、意味としては「信頼できない語り手」なので、ある意味正しいだろう。
ちなみに叙述トリックの良く出来た小説が映像化するという話があると、当然ながらその界隈がざわつく事になる。「え、この二人が同一人物だって事をどうやって伏せるの?」といった具合に。実現不可能と思われるものほど驚きはあるが、しかし興味にそそられ、ファンは百抹の不安と一縷の期待を胸に観に行く事になるのである。