「僕は、『ゼルダ』が好きだ」
出典元、ファミ通「ゼルダの伝説 時のオカリナ」インプレッションより。著者、風のように永田。
「ゼルダの伝説」の主人公はリンクで、お姫様がゼルダだが、ここでの『ゼルダ』は作品名「ゼルダの伝説」を指す。
ニンテンドースイッチ「ゼルダの伝説 ザ ブレス オブ ワイルド」が凄いと話題になって久しいが、というか未だに本体が入手困難なのも「時のオカリナ」以来の名作と言われるこの作品が一役買っているのだろうが、その「時のオカリナ」についての記事である。1999年。
「ゼルダの伝説 時のオカリナ」はニンテンドウ64のゲームソフトで、ゲーム史における金字塔中の金字塔という扱いのゲームである。その造り込まれた世界観、謎を解いた時の感動、後のゲームに影響を与えまくったシステムなど、元は2D見下ろし型ゲームだった「ゼルダの伝説」が3Dになって大丈夫か、というユーザーの不安を空の果てまで吹き飛ばす、とんでもなく素晴らしい出来のゲームだった。当時、有名人がプレイするCMをたくさん流していたので覚えている人もいるだろう。
しかし、言わせてもらえば風のように永田氏の書いたこの記事もまたレジェンドである。この記事はファミ通の、インプレッションというコーナーに掲載された。彼は冒頭で悩みを語る。自分は何を書けばいいのか。開発者の言葉の引用か、ゲーム史における役割か、インターフェースか、音楽か。もう既に、このゲームについては色々なところで語り尽くされている。
”だが、強い思いは体裁を顧みず滲み出てくる。”
そこから先は「好きだ」しかない。ゲーム内のこのキャラが好きだ、この音楽が好きだ、草刈りが好きだ。プレイしてるあの人のあの反応が好きだ、ゼルダ談義が好きだ、失敗談を聞くのが好きだ。そんな「好きだ」をひたすら連呼する。何十行も「好きだ」しかない。こんな記事があるのか。しかし伝わってくる。ゼルダ愛が非常に伝わってくるのである。
自分が好きだからと言って他人も気に入るとは限らない。面白さを伝えるのは大変なのである。この記事はまさに、文章における技術ではなく魂の叫びで、読んだ人の心を揺さぶってくる。このゲームをプレイしていればすごく共感できるが、プレイしていなくても心に響く名記事である。